会報誌

「熱意と誠意があれば何事も達成することができる」つくし会コラム

今回は、新紙幣の顔の一人である北里 柴三郎について取り上げてみたいと思います。北里柴三郎は、明治から昭和初頭にかけて活躍した微生物学者です。破傷風菌の純粋培養に成功したり、ペスト菌による血清療法を確立するなど、感染症学に大きく貢献しました。また「私立北里研究所」(現・学校法人北里研究所、北里大学)を設立するなど、日本近代医学の発展に寄与した人物として知られています。

柴三郎は、1853年に肥後国(現在の熊本県)で9人兄弟の長男として生まれました。父の惟信(これのぶ)は代々続く庄屋の当主、母の貞(てい)は武家の娘という厳格な家庭に育ちました。幼少期から勉学より武芸に興味があった柴三郎でしたが、両親は教育に関して甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼しました。8歳からの2年間は、父の姉の嫁ぎ先である橋本家で論語・算術を修得。10歳になると、今度は母の実家に預けられ、漢籍や国書を4年間学びました。13歳で熊本城城下へ出て、熊本藩校「時習館」(じしゅうかん)で儒学、兵法・漢方医学などを学びます。

幼い頃から、父母に「人の役に立つこと」の大切さを教えられた柴三郎は、人のためになる職業として軍人または政治家を志そうとしました。ところが、両親はこれに大反対し、我が子を医師にすべく「古城医学所」(熊本藩が築いた西洋医学の学校)に入学させます。最初は乗り気ではなかった柴三郎でしたが、ここで自らの運命を変えることになるオランダ人軍医のマンスフェルトに出会います。彼は柴三郎の才覚を見抜き、顕微鏡を用いて動植物の細胞を見せ、医学の素晴らしさを説きました。この出会いがきっかけで、柴三郎は微生物の世界に興味を持つようになったのです。

柴三郎の両親による教育や医学の道の勧め、恩師との出会いがなければ、日本の近代医学の発展は遅れていたのかも知れません。

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