会報誌

日本のプロ野球界を経ず海外にチャレンジ きっかけは「好奇心」 元プロ野球選手 上野 啓輔さんインタビュー

子ども達にとって、今も昔も憧れの職業の一つである「プロ野球選手」。子育て中の親御さんの中にも、かつて将来の夢として思い描いたことがある方もいるかもしれません。そんなプロ野球選手として、国内外で活躍した上野 啓輔さん。大学中退後に単身渡米してマイナーリーグでプレーし、帰国後に東京ヤクルトスワローズに入団したという異色の経歴の持ち主である上野さんに、幼少期の過ごし方や渡米のきっかけなどについて伺いました。

上野啓輔氏プロフィール

千葉県出身の元プロ野球選手。大学を2ヶ月で中退して半年間フリーター生活を送った後、単身渡米してアメリカの独立リーグで1年、テキサス・レンジャーズ傘下のマイナーリーグで3年半プレー。帰国後は、プロ野球独立リーグの香川オリーブガイナーズで2年間活躍し、2010年に東京ヤクルトスワローズに入団。引退後は、野球指導者、大正大学ピッチングコーチ、カナダ独立リーグIBL 日本スカウト、株式会社FROM BASE.代表として幅広く活動中。

幼少期から野球が上達する生活習慣を実践

石井氏
―上野さんと言えば、日本のプロ野球界を経ずにいきなり海外にチャレンジしたという異色の経歴をお持ちですが、そもそもどんな野球少年だったのでしょうか?

上野氏:兄が野球をやっていたので、自分で野球を選んだという感覚はあまりなく、幼いころから自然と野球をするような生活環境の中で育ちました。ただ、正直なところ、小・中学生のころは野球が好きな気持ちとやめたい気持ちが半々ぐらいでしたね。うちは父親が野球に対してものすごく厳しくて、普段から野球が上達するような生活習慣を身につけるように言われていたんです。

石井氏
―野球の技術そのものではなくて、「野球が上達するような生活習慣」ですか?

上野氏:はい。例えば、体を大きくするために一日4~5食を食べたり、中学3年生までは必ず21時までに就寝したりといったことです。早く寝る分、毎朝6時には起きて、勉強や練習をしてから学校に行っていました。なので、自分が親になった今も、アスリートとしてまずは体が資本だと思って子育てをしているところはあります。長男が現在小学校3年生なのですが、野球選手になりたいと思っているみたいで。だんだん自分から将来の夢や目標を口にするようになってきたので、一番の支援者である親の私も、そういうマインドでやらないとまずいなと思っています。

石井氏
―ご自身も子供のころから相当ストイックな生活をされていたのですね。野球をやめたいと思ったことはないんですか?

上野氏:ありますよ。中学2年生のときにも一度本気でやめようとしましたし、大学に進学して野球部に入ったもののすぐに退部・退学し、半年間フリーターをしていたこともあります。でも、親やチームの関係者など、周りの大人がやめさせてくれなかったんですよ(笑)。いろいろな方から「君は野球をやるべきだよ」と言われて。そういう周囲の説得を聞きつつ、自分の中にもやはり半分は「やりたい」という気持ちがあったから続けてこられたのかなと思います。

石井氏
―どういう部分がつらくてやめようと思ったのですか?

上野氏:自分としては、小学生のころから「誰よりも練習している」という自負がすごくあったんです。それなのに成果が出ないと、やっぱりつらいんですよね。「こんなにやっているのに……」と思ってしまって。特に中学2年生の時は、もうこれ以上できないというぐらい練習して、「よし頑張るぞ!」と意気込んでいた矢先に、関東1位のチームに負けてしまったんです。そのときに、もう嫌だなと思ってやめたくなったことを覚えています。


現在は少年野球スクールなどで指導を行っている上野さん

渡米のきっかけは「好奇心」

石井氏
―高校時代に甲子園で活躍して日本のプロ野球界に進む、というルートが一般的なのかなと思いますが、そういう発想はなかったのでしょうか?

上野氏:父親からは「日本のプロ野球選手になるんだ」と言われていて、子どものころからそのための生活を送っていました。でも、実は甲子園というのはあまり意識していなかったんです。中学3年生のときに、松坂 大輔選手が甲子園で活躍されているのを見て、やっと少し意識するようになったぐらいでした。もちろん高校時代は、甲子園という舞台を目指してはいましたが、自分としてはその先の「プロ野球選手になる」という意識の方が大きかったです。ちなみに、当時は海外を意識したことはなく、あくまでも日本のプロ野球界を目指していました。

石井氏
―いつごろから海外を意識するようになったのですか?

上野氏:大学を辞めてフリーターをしているときに、中学時代の恩師から「君はやっぱり野球をやるべきだよ」と言われて。いくつか選択肢をあげていただいた中に、フロリダ・マーリンズのアカデミーに行くというものがあったんです。他にも、社会人野球や専門学校など、いろいろな選択肢があったのですが、話をいただいた瞬間に「アメリカに行きたいです」と。「決断する」とか「考える」という感じでは全くなくて、ただアメリカに行ってみたいという好奇心だけで即答していました。

石井氏
―かなり大きな決断のように思えますが、ご本人としてはどうだったのでしょうか?

上野氏:自分としては、そんなに大きな決断をしたとは思っていないんですよね。でも、いろいろな方にお会いして当時の話をすると、「よく決断したね」「すごいよ、それ」と言っていただくことが多いです。なので、自分はすごく変わった経験をしてきたんだなと今になって感じているところです(笑)。


子ども達と一緒に体を動かす上野さん

世界のレベルに圧倒される日々

石井氏
―実際にアメリカに行ってみてどうでしたか?

上野氏:当時マーリンズのマイナーリーガーだった選手に、リック・バンデンハークという、私と同い年の投手がいました。のちに来日してソフトバンクとヤクルトで活躍した選手なのですが、彼のキャッチボールを見たときに衝撃を受けたんです。あんなに速い球を今までに見たことがなかったので、「あぁ、世界にはこんな選手がたくさんいるのか」とすごく刺激を受けました。彼のおかげで、自分もアメリカでプレーしたいと強く思うようになりました。

石井氏
―海外でプレーすることについて、ご両親は何とおっしゃっていましたか?

上野氏:実は、大学の野球部をやめて退学したときに、両親からは「もうお前の野球は支援しない」とはっきり言われていました。ただ、私がアメリカに行きたいという話をしたら、すぐに渡米の段取りをつけてくれて、「行きたいなら行きなさい」と後押ししてくれました。当時私はフリーター生活を送っていて、まだ若かったので遊んだりもしていたのですが、両親がいろいろと工面してくれるのを見て、「遊んでいる場合じゃないな。もう一度、真剣に野球に取り組もう」と思いましたね。

石井氏
―海外で強者たちと戦う中で心が折れそうになる瞬間もあったと思いますが、どうやって乗り越えたのでしょうか?

上野氏:いざマイナーリーグに入ってみると、同じ世代の選手たちはみんな自分よりもずっと球が速くて、本当に圧倒されました。どうやってこの世界で生きていこうかと、日々もがいていましたね。ただ、日本人は高校野球でかなり緻密な野球を教え込まれるので、牽制や配球一つとっても、海外の選手にはない緻密さがある。それから、当時私はフォークボールをよく投げていたのですが、ひじの故障率が高いこともあって、他に投げている選手が周りにあまりいなかったんです。なので、「緻密さ」と「フォークボール」が自分の武器になるなと。そう気づき始めたころから、トントンとステップアップしていったような感覚はありました。


アメリカでプレーしていたころの上野さん

「失敗するからこそ成功体験が得られる」と伝えたい

石井氏
―4年半アメリカでプレーした後帰国し、ついに東京ヤクルトスワローズから声が掛かったときはどんな気持ちでしたか?

上野氏:日本のプロ野球選手になるというのは、幼いころからの一番の目標だったので、すごくうれしかったです。もう24歳になっていたので、その年のドラフトで声が掛からなかったら野球をやめようと思っていました。父にも電話で「ヤクルトから声が掛かったよ」と伝えました。そのときは「そうか」という感じだったのですが、実は家で一人泣いていたらしいです。ヤクルト時代は、両親も頻繁に球場に足を運んでくれました。そのたびになぜかよく打たれてしまったんですけどね(笑)。

石井氏
―ご自身のこれからのキャリアについてはどうお考えですか?

上野氏:今はいろいろなご縁をいただいて、少年野球スクールや野球用具の開発・販売などをやらせてもらっていますが、昨今では野球の競技人口自体が減ってきているという現実もあり、正直なところこのまま野球だけで終わっていいのかなという葛藤もあります。具体的にはまだ何かわかりませんが、野球ではない違う世界で勝負していきたいという思いは強いですね。

石井氏
―最後に、ご自身が子育てをしていて感じることや、親御さんに向けたメッセージなどがあればお願いします。

上野氏:私は父親から、何事も習慣にすることが大事だと教えられてきました。それは今でもすごく大切なことだと思っているので、子ども達にも伝えていきたいです。また、自分の子どもやスクールの生徒達には、失敗できる環境を作ってあげたいとも考えています。失敗するからこそ成功体験が得られると思うので。失敗してもいいんだよということと、その失敗を克服するためには習慣が必要になるんだよということは、これからも意識して伝えていきたいと思っています。

(聞き手/LOCON株式会社代表取締役、金沢工業大学虎ノ門大学院准教授 石井大貴)

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