
福岡ソフトバンクホークスで主力として活躍し、メジャーリーグや台湾プロ野球にも挑戦するなど、国内外で活躍し続けるプロ野球選手の川崎 宗則さん。「ムネリン」の愛称で親しまれ、スピード感あふれるプレーと明るく情熱的なキャラクターが多くのファンを魅了しています。そんな川崎さんに、幼少期の思い出や、バスケやバンド活動にはまっていた中学・高校時代、夢に向かって頑張る子どもたちへのメッセージなどを語っていただきました。
プロ野球選手 川崎 宗則さん
鹿児島県姶良市出身。鹿児島県立鹿児島工業高等学校から福岡ダイエーホークスへ入団(2000 年)。遊撃手として活躍し、最多安打・盗塁王(2004 年)やベストナイン・ゴールデングラブ賞などを獲得。2006 年に開催されたワールド・ベースボール・クラシックでは日本代表に選出され、優勝に大きく貢献。2012 年、活躍の舞台をメジャーに移し、シアトル・マリナーズ、トロント・ブルージェイズ、シカゴ・カブスでプレー。その後、再び福岡ソフトバンクホークス、味全ドラゴンズ、栃木ゴールデンブレーブスなどでプレーするいっぽう、野球教室や YouTubeを通じて野球の楽しさを発信し続けている。
遊び場は山と川 薩摩の俊足を生んだ幼少時代
石井氏
―川崎さんは、幼少期はどんな環境で育ったのですか?
川崎氏:僕の家は電気工事屋を営んでいて、僕が生まれたのは、ちょうどおやじが独立しておふくろと二人で現場を駆け巡っていたころでした。なので、僕は7個上の姉と5つ上の兄に育ててもらったようなものなんです。家にはお姉ちゃんや兄貴の友達もよく遊びに来ていて、みんなにかわいがってもらいました。おかげで、寂しいと思ったことはありません。周りのプロ野球選手は「子どもの頃よくお父さんとキャッチボールをした」という人が多いけれど、僕の場合はいつも兄貴がやってくれました。まさに兄貴が父親代わりという感じでしたね。
石井氏
―球界屈指の俊足としても知られる川崎さんですが、子どもの頃はどんな遊びをして過ごしていたのですか?
川崎氏:僕が通っていたのは、山の中の城跡に作られた小学校でした。なので、遊ぶところと言ったら、山の遊歩道とか川とか。とにかく自然の中を走りまわって、ミカンの木からミカンを取ったりしていました。今ではなかなかない環境ですよね。野球を始めたのもこのころです。小学校時代は、軟式野球の強豪チームに所属していて、僕はそこでキャプテンをやらせてもらっていました。
ご実家の前で素振りをする小学生時代の川崎さん
石井氏
―その頃からもう頭角を現していたんですね。中学でもやはり野球一筋だったのですか?
川崎氏:それが、中学では違うスポーツをやりたいなと思って、最初はバスケ部に入ったんですよ。周りは驚いていましたね(笑)。案の定、入部初日に教員室に呼び出されて、バスケ部と野球部両方の監督から「何で野球部に入らないんだ」と問い詰められました。僕は、「もう試合に出たくないんです」と。小学校のときも、ただボール遊びが好きだっただけで、試合に出たかったわけじゃない。しかも、キャプテンだと監督に厳しく当たられたりするじゃないですか。それが嫌で、中学ではもう試合にも出たくないし、3年になってもキャプテンにはなりたくないと言ったんです。
小学校時代は強豪チームでキャプテンを務めた
石井氏
―それは先生たちも驚いたでしょうね。その後どうなったのですか?
川崎氏:結局、野球部の監督に「そもそも先輩たちがいるから、そんなにすぐ試合には出られないよ」と言われて。しかも、その場にいた僕の親友が、「3年生になったら俺がキャプテンになる」と約束してくれた。それなら、ということで野球部に入りました。このときの教員室でのミーティングがなかったら、プロ野球選手になることもなかったでしょうね。
スポーツ推薦で高校進学 しかし心はバンド活動へ!?
石井氏
―紆余曲折を経て野球部に入部されて、実際にはどうでしたか?
川崎氏:先生が言った通り、1~2年生の間は試合に出ずに裏方の仕事をしていました。一生懸命バット引きや球拾いをして、それが毎日すごく楽しかった。3年生になってからは試合にも出るようになりましたが、キャプテンは親友がやってくれて、僕は副キャプテンとして彼を支えることに。公立の中学校は私立と違って先生がどんどん変わるので、練習メニューや試合の打順なども、監督ではなく全て自分たちで話し合って決めていました。振り返ると、あの頃の礎が今の僕を作ってくれたと思います。
石井氏
―高校はスポーツ推薦で進学されました。そこからは順風満帆だったのでしょうか?
川崎氏:それが、実は中学3年の夏の大会が終わってからバンドに目覚めちゃったんです。当時GLAYのJIROさんが大好きで、ベースにはまってしまって。高校に入ってからも、平日は野球部の練習をしつつ、土日にバンド活動を続けていました。1年生は、土日は先輩たちとは別に神社で筋トレなどをしていたので、そっちは行かなくていいかなと思って(笑)。
石井氏
―野球とバンドの両立とは初めて聞きました! バンド活動はその後も続けたのですか?
川崎氏:あるとき、ライブのためにうそをついて土日の練習を休んだんです。それが監督にバレて、当然、「土日もしっかり練習しろ」と叱られました。でも、僕は僕で、「筋トレなら家でもできるじゃないですか」と反論してしまったんです。そうしたら、「それならやってみろ」と、先輩たちの練習に連れて行かれて。僕、そこで初めて硬式のボールを握ったんですよ。中学までは軟式だったので。しかも、2つ年上の先輩たちはやっぱり体格からして全然違う。それで僕も「よく分かりました。バンドをやめて土日も神社で筋トレします」と言ったんです。ところが、なぜかその後も先輩たちとの練習に呼ばれ続け、しまいにはレギュラーで試合に出ることになってしまって……。
石井氏
―あっという間にレギュラーになって、自分でもびっくりしたのではないですか?
川崎氏:はい。4月までバンドをしていた1年生が、7月の大会に出ろと言われたんですよ。僕はもう、心の中で「やめて!」と。先輩たちを差し置いて試合に出るのが本当に嫌で、あのときほど苦しいことはなかったですね。
まさかのドラフト指名 夢のプロ野球選手に
石井氏
―やはり当時から並外れた才能があったのですね。プロ野球選手を目指そうと思い始めたのもこの頃ですか?
川崎氏:たしかに、先輩たちに混ざって初めて硬式ボールで練習したとき、「めっちゃ簡単や」と感じたんですよね。打つほうも、最初こそ全然打てませんでしたけど、夏を過ぎて秋になるころには、だいぶ飛ぶようになりました。そんな中、はっきりプロを意識するようになったのは、高校2年生のとき。その年の体力測定で、50m走を測ったら5秒台が出たんです。そのとき測ってくれた体育の先生が、「お前、プロのテスト受かるかもしらんな」と。その一言が、プロを目指すきっかけになりました。
石井氏
―こからプロの入団テストに向けてトレーニングを始めたのですか?
川崎氏:はい。一次試験は50m走と遠投が選考基準だったので、そこに向けて頑張っていました。ただ、あとから、テストには二次試験がある、しかも二次は実戦だとわかったんです。僕は、実戦は自信がなかったので、これは無理かなと。学校自体が決して強くはなかったので、高校3年の夏の大会も二回戦で敗退。プロ野球選手の夢は諦めかけていました。そんなとき、ある大学の監督が「ぜひ来てほしい」と声を掛けてくれたのです。僕も、大学で実戦を積んでから、4年後にプロのテストを受けるのも悪くないなと思って。家族もみんな応援すると言ってくれたので、大学に進学しようと決めていました。
石井氏
―でも、その年のドラフト会議で福岡ダイエーホークスから指名されたのですよね。
川崎氏:そうなんです。実は、声を掛けてくれた大学の監督から、「もしかしたらプロのスカウトも見ているかもよ」と言われてはいました。でも、僕の高校からプロに行った先輩は過去に一人もいなかったし、僕も大学に行くことしか考えていなかった。ドラフト当日も、いつもどおり後輩と練習をしていました。そこへ、突然監督が走ってきたんです。しかも、泣きながら。
入団発表直後の川崎さん(写真:時事通信社)
石井氏
―ご自身も周囲も、本当にまったく予想していなかったのですね。
川崎氏:僕自身、はじめは何があったのか分かりませんでした。でも、監督が「すぐに着替えろ。今から記者会見だ」と。それで、周りにいた後輩たちが気づいて駆け寄ってきてくれて。後輩たちに胴上げされながら、僕もやっと状況が見えてきました。大急ぎで校長室に向かうと、もうテレビ局のカメラマンたちが集まっていて、すぐに記者会見がスタート。何とかその日の夕方のニュースに間に合わせることができました。
スポーツは負けの中にこそ面白さがある
石井氏
―川崎さんといえば、チームを盛り上げるムードメーカーの印象が強いですが、あのずば抜けたコミュニケーション能力はどうやって育まれたのでしょうか?
川崎氏:特別なことは何もないですけど、小さい頃の環境が大きかったかもしれません。うちには、父の仕事関係の人たちがよく飲みに来ていました。水道屋さん、電気屋さん、建築関係など、いろいろな仕事の人たちがいて、その人たちの話を聞くのが単純におもしろかった。そのころから、人はみんな個性があって、同じじゃないということを自然に感じていたのだと思います。それはプロ野球に入ってからも同じでしたね。選手も一人一人違って、それぞれ自分なりの個性があるわけですから。
石井氏
―野球やスポーツを頑張っている子どもたちに向けて、メッセージをお願いします。
川崎氏:今、息子も野球をやっていますが、僕が口出しするのは礼儀や友達へのリスペクトといった人として大切なことだけ。野球の技術については一切言いません。それは、僕自身が子ども時代に独学で野球を楽しんできたから。まずは自分で考えてやってみる。その結果、たとえ負けてもいいんです。負けから学ぶことのほうが多いのですから。それを大人が先回りして教えてしまったら、スポーツの面白さが消えてしまう。子どもたちには、自分の感受性を大切にし、相手を尊重しながら、スポーツを通じて豊かな人間性を育んでいってほしいです。
石井氏
―自分でどう考え、どう感じるかが大事なのですね。
川崎氏:そう思います。僕が、いつも息子や少年野球の子どもたちに言っていることがあります。それは、キャッチボールの大切さ。野球でも他のスポーツでも、キャッチボールをすることってありますよね。あれは、「キャッチ(受け取る)ボール」であって、「スロー(投げる)ボール」ではないんです。これは、人とのコミュニケーションも一緒。自分が受け取る姿勢を見せれば、相手も「この人にはボールを投げていいんだな」と分かってくれる。投げることよりも、どういう姿勢で受け取るかが大事なのだと、子どもたちには伝えたいですね。
(聞き手/株式会社LOCOK代表取締役、金沢工業大学虎ノ門大学院准教授 石井大貴)





