会報誌

「海外に出て人生の選択肢が何十倍にも広がった」 世界屈指の名門大学で学んだ文武両道のスノーボーダー

SAJ(全日本スキー連盟)のアルペンスノーボーダーとして、世界で活躍している豊田 亜紗氏。大学時代は、競技を続けながらアメリカの名門校であるダートマス大学で学ぶなど、まさに文武両道のアスリートとしての道を切り開いてきました。そんな豊田氏に、学業と競技をどう両立してきたのか、海外に出ることで人生がどう変わったのかなどについて伺いました。

豊田 亜紗氏プロフィール

1996年、東京都生まれ。SAJ(全日本スキー連盟)強化指定選手、オリンピック強化指定選手として世界大会に多数出場。大学時代は学業と競技を両立しながら、アメリカの名門校であるダートマス大学を卒業。昨シーズンは第27回全日本スキー選手権大会にて銀メダル獲得。今シーズンより再びワールドカップに参戦し、さらなる飛躍を目指す。

文武両道の夢を歓迎してくれたダートマス

石井氏
―豊田さんはスノーボードのトップ選手でありながら、アメリカの名門ダートマス大学で学び、まさに文武両道を実現されたアスリートです。まず、アメリカの大学に行こうと思ったきっかけから教えてください。

豊田氏:私は幼いころはイギリスに住んでいて、4~5歳のときに日本に帰国しました。帰国後もアメリカンスクールに通い、そのころからいずれはアメリカの大学に進学したいと考えていました。
昔から勉強が大好きで中学・高校時代の成績も良かったので、アメリカのトップの大学に行きたいと思っていて、特にアイビーリーグ(※)に憧れがありました。そんな中、通っていた高校で「カレッジフェア」という、アメリカの大学を紹介するフェアが開催され、アイビーリーグの各大学の方とお話をする機会がありました。そこで「スノーボードでオリンピックを目指しながら学業もトップを目指したい」という思いを語ったのですが、ほとんどの大学からは「いや、それは無理だよ」と言われてしまったんです。そんな中、ダートマスだけが「ぜひうちに来てください」と。「うちの卒業生にはオリンピアンが100人以上いるんですよ」と言われて、すぐに「ここしかない!」と思いました。

※アイビーリーグ…アメリカ合衆国北東部にある8つの私立大学の総称。ブラウン大学、コロンビア大学、コーネル大学、ダートマス大学、ハーバード大学、ペンシルベニア大学、プリンストン大学、イェール大学。米国の政財界・学界・法曹界をリードする卒業生を数多く輩出している。

石井氏
―競技を続けながら6年で大学を卒業されたわけですが、どのように学業と両立させたのですか?

豊田氏:アメリカの大学は秋・春の2期制が多いのですが、ダートマスは秋・冬・春・夏の4期制でした。そして、例えば「冬と秋の学期は休んで競技に100%集中し、春と夏は大学に行く」とか、「オリンピックの年は夏だけ大学に行く」というように、自由自在にプログラムを組めるようになっていました。私も入学時のカウンセリングで「こういうプログラムを組みたい」と相談したところ、学校側も慣れていて歓迎してくれました。
大学の授業はレベルが高くて、特に難しい授業だと2回休むだけで追いつけなくなるぐらい、ペースが早くて大変でした。例えば、秋の遠征で1週間だけ休むなどというときには、朝の練習が終わると残りは一日中勉強したり、友達に内容を教えてもらったりして乗り切っていました。


ダートマス大学の卒業を記念して

「幸せな選択肢だな」と気付いて考え方が変わった

石井氏
―そのころ競技の成績はどうだったのでしょうか?

豊田氏:結構、上下の波がありました。特に最初の3~4年は、競技と学業を両方やっていることが正しいのかどうかという迷いがあって、それがかなり影響したと思います。
私の場合、海外の大会に出始めたのが大学に入ってからだったので、はじめは全く歯が立たず、すごく悔しい思いをすることもありました。そういうとき、周りを見回してみると、文武両道している人がゼロに近い。だから「やっぱり競技に集中しないとだめなんだな」と思うわけです。一方で、春になって大学に戻ると、周りも優秀な生徒ばかりだし、もともと私自身も勉強が大好きなので、「卒業後は社会貢献できるようなキャリアを歩みたい」と考えると、今スポーツをやることってそんなに大事なのかな……と悩んでしまって。そういう迷いが毎年あって、それはすごく大変でした。

石井氏
―在学中は悩むことも多かったのですね。今振り返ると、学業と競技を両立したことは良かったと思いますか?

豊田氏:今では、本当に良かったと思っています。そう思えるようになったのは、5年目ぐらいからですね。私と一緒に入学した同級生たちが4年で卒業し、就職し始めたときに、「亜紗、仕事は全然楽しくないから、できるだけスノーボードを続けたほうがいいよ」と冗談交じりに言われて(笑)。仕事はあとでやりがいがあることを見つければいいけど、競技の選手寿命はいつか終わる。それなら、「続けたい」と思えるうちは頑張ろう、と考えるようになりました。スポーツに専念できるって本当にラッキーだし、そんな人なかなかいないじゃないですか。だからすごく幸せな選択肢だな、と気付けてから考え方が変わりました。
あと、ダートマスのコミュニティはすごくしっかりしていて、大学で出会った人や友達は一生ものと言われています。そのカルチャーを体験できたことにすごく感謝しているので、長い目で見ると今は全く後悔していないです。

努力して実力やタイムが上がっていくのが楽しい

石井氏
―豊田さんの子ども時代についても聞かせてください。そもそもスノーボードを始めたきっかけは何だったのでしょうか?

豊田氏:小さいころからスキーをやっていたのですが、6~7歳のときに父親がスノーボードをやっているのを見て、「私もスキーよりスノボをやってみたい!」と思ったのがきっかけです。子どものころから、何でも新しいことにチャレンジするのが好きでした。両親には、「スキー検定のジュニア1級に合格したらいいよ」と言われて、それがモチベーションになりました。検定当日は「とにかく受かりたい!」という気持ちで臨み、無事に合格できたので、スノーボードを始めることになりました。

石井氏
―どうしてもやりたかったスノーボード、始めてみたらやっぱり楽しかったですか?

豊田氏:いや、それが最初はそうでもなくて(笑)。当時から父親がよくアマチュアのスノーボード大会に出ていて、私も同じ大会に出場するために、毎週末長野に連れていかれたんです。でも、中学生のころは友達とも遊びたいし、勉強もちゃんとしたかったので、本当に嫌だったんですよね。それで毎週父親と大ゲンカして、スノボも嫌いでした。でも、いくら「やめたい」と言ってもやめさせてもらえなくて。ついに中学2年生のときに、やめることを諦めました(笑)。そして、どうせやめられないんだったら努力してみようと思うようになったんです。そうやって真剣に向き合い始めたら、次の年にジュニア指定の強化選手になることができました。そして、ジュニアワールドという、世界中の選手と戦ってランキングを決める大会にも2回出場することができました。

石井氏
―一時的に嫌いな時期があっても、結果的にはスノボが好きだったから続けて来られたということでしょうか?

豊田氏:うーん、スノボ自体はそんなに好きではなかったんですけど、何かに向かって努力して、実力やタイムを上げたり、目に見える結果がどんどん上がっていくのは楽しかったですね。私の場合は、たまたま一番近くにスノボがあったので、スノボを通してそれを実現していたという感じです。そうやって続けているうちに高校生になり、大学のことや将来のことを考えるようになってからは、「やり切りたいな」という思いが出てきて、いつの間にかスノボが大好きになっていました。今では本当にやっていてよかったなと思いますし、きっかけをくれた父親にも感謝しています。両親はいつも「亜紗が何をしても応援してあげる」と言ってくれて、それは言葉以外の部分からもすごく伝わってきました。


世界中の大会で活躍している豊田氏

海外に出て人生の選択肢が何十倍にも増えた

石井氏
―「海外にチャレンジしたい」と考えている親子の皆さんにメッセージをお願いします。

豊田氏:日本人は他の国の人と比べて、自分の国を離れたり、母国語以外の言語を習ったりする人が少ないような気がします。もちろん、日本はすごくいいところだし、離れたくないのもわかります。でも、私の場合は、子どものころからアメリカンスクールに入れてくれて、アメリカの大学にも行けたおかげで、自分の可能性が何十倍にも広がったと感じています。言語だけではなく、世界に出たらこんなこともあるんだという気づきや、出会う人の幅もすごく広がって、自分の人生の選択肢が何十倍にも増えました。もちろんそうは言っても、インターナショナルスクールに通うのも、海外旅行や留学に行くのもお金が掛かりますし、簡単なことではないと思うので、恵まれた環境で育ててくれた両親には本当に感謝しています。

石井氏
―競技人生の先のキャリアについてはどう考えていますか?

豊田氏:父が医者ということもあり、子どものころは、人を助けることができる医者という職業に憧れていました。でも、大学に入ってから、医者のように一人一人を助けるだけでなく、社会に貢献するやり方はほかにもたくさんあるんだなと気づいたんです。そして、自分が大好きな経済学と、昔から興味があった医学の分野を合体させたような仕事をしたいと思うようになりました。大学の先輩や先生の中にも、バイオテクノロジーやヘルスケアの分野で活躍したり、病院のシステムを改善するためのコンサルとして働いたりと、さまざまなキャリアを歩んでいる人がいます。そういう先輩たちを見て、あまり焦らなくなりました。競技人生が終わってから新たなキャリアに挑戦するということは、もちろん難しい面もあると思いますが、たくさんの選択肢の中から自分の進む道を選んでいけたらと思っています。

(聞き手/LOCON株式会社代表取締役、金沢工業大学虎ノ門大学院准教授 石井大貴)

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