今号では、戦国時代の武将でダントツの知名度と人気を誇る織田信長の幼少期について取り上げたいと思います。
信長は、天文3年(1534)尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として生まれました。その頃、織田家は下尾張を代表して隣国と渡り合っていました。信長は、2歳のときに那古野城主になっています。
幼い頃から身分を約束されていた信長ですが、青年期までは常識外れの行動が多く「尾張の大うつけ」と呼ばれていました。奇天烈な外見で周囲を驚かせるだけでなく、寺で学問を習う際は真面目に話を聞かず、食事のときには他人のものを奪い、街中では柿や瓜をかじりながら歩いていました。極めつけは、父・信秀の葬儀での一幕です。信長は、自分が喪主なのにもかかわらず葬式に遅刻、父の位牌に抹香を投げつけました。このエピソードは、近隣の大名らの間でも噂になったといわれています。
信長には平手政秀という教育係がついていましたが、信長が大うつけになったことに責任を感じ、気持ちを新たにしてもらいたいという思いで切腹しています。さすがの信長も大きなショックを受けたようで、猛省し政秀寺を建立して霊を弔いました。
奇想天外な幼少期の信長の行動ですが、実は世間を欺くための芝居だったとする見方もあります。また、身分にこだわらず町の若者たちと戯れていたようで、武士の息子という立場を考えれば、これがいかに風変わりだったかは想像に難くありません。信長は、仲間から見て「気立ての良い兄貴分」だったと考えられます。後の乱世で頭角を現し、天下統一へと突き進む信長には、独特の人脈づくりや信頼関係の構築術があったのかも知れませんね。