今号では、新しい五千円札の顔となった、津田塾大学の創設者・津田梅子の幼少期からの生い立ちや教育観について紹介します。
梅子は、女性の地位向上こそ日本の発展につながると信じ、女性の高等教育に生涯を捧げた人物です。元佐倉藩の藩士で農学者津田仙の子として江戸に生まれました。6歳のときに、日本初の女子留学生の一人として岩倉使節団に加わり、アメリカへ渡りました。この時の女子留学生は5人。最年少が梅子で、英単語をいくつか知っている程度だったそうです。一行を乗せた船は翌1872年1月にサンフランシスコに到着。梅子は、ワシントン近郊に住む夫妻の家に預けられました。
小学校を終え、女学校に進み、語学、数学、物理学、天文学などを学びました。そして1882年11月、帰国の途につきます。アメリカで少女時代を送った梅子にとって、帰国後の日本はカルチャーショックの連続でした。日本女性の置かれていた状況を知り、その地位を高めなければという思いを募らせましたが、機会はなかなかめぐってはきませんでした。
しかし、華族女学校の教授をするかたわら、再度アメリカへ留学。大学で質の高い少人数教育を受けた経験が、その後の梅子の教育観へとつながってゆきます。そして1900年、津田梅子はついに私立女子高等教育における先駆的機関のひとつである「女子英学塾」(津田塾大学の前身)を創設しました。
梅子の教育観を示す、次のような言葉があります。
「人々の心や気質は、その顔の違うように違っています。したがって、その教授や訓練は、一人々々の特質に、しっくりあてはまるように仕向けなくてはなりません。」
学校教育はもちろんですが、家庭教育においても子どもの特質を見極め、子ども達を尊重した接し方が必要であることが分かります。